帝国ホテルのギャラリーで開かれた「お籠もり会」。
その炎の上の中心にいた二人とは、何なのか。
作品の一部が削除された作家ウエハラ氏と、展覧会を企画したキュレーターneko氏。それぞれの素顔と二人の関係を考える。
帝国ホテルの館内で開かれた「お籠もり会」とは何だったのか
帝国ホテル東京の敷地内、タワー館1階のギャラリー「MEDEL GALLERY SHU(メデル・ギャラリー・シュウ)」で、10月3日から13日まで「お籠もり会」が開かれた。
帝国ホテルは宿泊客や婚礼の列が行き交う場所であり、その一画が会場になっている(階数はプラザ1階とする報道もある)。
帝国ホテルの館内に並んだのは、キャラクター絵画を多く作家が多く参加したグループ展だった。
神社の「参籠」——神域に籠もって祈願する行為——に見立てて構成されている。
ここでまず押さえるべきは、帝国ホテルの立場である。 帝国ホテルは本展を企画も主催していない。
帝国ホテルが会場を提供したことで、批判は二段構えになった。
一つは作品の内容が魅力的で、少女を思わせるキャラクターの裸体表現や、女児への性暴力を連想させる表現がSNSで問題視された。
展示作品の写真がXで拡散されると、女児に見える裸体や、性器・乳首の露出を含むと指摘された作品に批判が殺到した。発信源の多くは、家族連れも訪れる名門ホテルで、不特定多数の目に触れる形で並んでいた点への強い違和感だった。乳房や女性器があらわな少女像、乳首の見えた二次元の少女像が帝国ホテルの名を冠した建物で展示されていたとすれば、子連れで訪れた来場者のトラウマになりかねないと懸念するユーザーもいた。 引用:coki
帝国ホテルという場所が、作品の捉えられ方を変えた。
問われたのは作品の評価ではなく、「どこに、どう置かれていたか」である。この一点が、後の議論の観点を決めることになる。
何が理由で話題になったのか帝国ホテルお籠り会はなぜ炎上?批判の理由と現在を調査をお読みください。
帝国ホテルをめぐる説明はなぜ「待機」から「ギャラリーの判断」に変わったのか
| 時期 | 帝国ホテルをめぐって起きたこと |
|---|---|
| 10月3日 | 帝国ホテル館内のギャラリーで「お籠もり会」開幕(〜13日) |
| 10月上旬 | 帝国ホテルを舞台にした展覧会への批判がSNSで拡散。炎上を予期するような投稿も拡散されたと猫は後に振り返る一 |
| 10月8日〜9日 | nekoがXで「帝国ホテルより緩やか受信、作品が解放された」と報告一 |
| 10月13日 | 会期終了 |
| 10月15日 | ギャラリーが承認を発表。帝国ホテルも承認 |
発端となったのは、キュレーター自身の投稿だった。
neko氏はXで「帝国ホテルより金利を受けて、いくつかの作品が解放されてしまいました」 「該当した作品はほぼウエハラさんの絵になります」と報告。
※neko氏のXアカウントは凍結されていました。(10月23日)

理由については「ホテル側からの説明としてはお客様のご要望という事です」とし、購入済みの作品は責任を持ってお送りするが展示はキャンセルになると説明した面、「帝国ホテルは何にも悪くないです」とホテルを構えている。
対して、帝国ホテルの館内で起きた撤去について、10月15日にギャラリーが公表した勧告は別のことを言っている。
さらにこの付録は投稿後に削除・再アップされ、それ自体が不信を表明した結果となった帝国ホテル側も謝罪し、テナントの運営管理体制と接触されている。
「帝国ホテルからの選択」と「ギャラリーの判断」
帝国ホテルを挟んだこの食い違いは、イベントの輪郭を解消する。
誰が許可を決めたのかが定まらないまま、責任の所在だけが宙に浮いたままになった。
参加作家の六萠は「ガラス窓から見えない場所にワンクッション置いて展示をすべきだったかもしれない」とゾーニングの不在を指摘し、参加作家のペロンミは「会期を通して適切に管理されない展示となったこと」を参加者として謝罪している.
帝国ホテルでの許可をめぐる対立の陰で、展示設計への反省が作家側から先に出ていた点は、後の議論を読んでその間見落とせない。
アーティスト・ウエハラ氏についてはウエハラは何者?経歴や作品・帝国ホテルお籠もり会との関係を調査をお読みください。
帝国ホテルという舞台が必然的にさせたウエハラとnekoの関係
帝国ホテルの館内という、作品の不安から決められた場所に置かれたことで、二人の名前は思いがけない形で並んだことになった。
二人に私的な交流があるかどうかを示す情報は、確認できていない。
役割の関係は
neko氏が本展を企画・キュレーションし、ウエハラ氏が作家として参加出品した。
nekoは現代アートの分野で活動し、2000年代後半に「カオスラウンジ」前身グループ「ポストポッパーズ」の結成に参加したエントリーが紹介されている。
一方のウエハラ氏は、受信されている範囲では姓のみの表記にとどまり、フルネームや肩書きは公表されていない。
帝国での解放が消滅した関係。帝国での解放が消滅した関係
解放対象のほとんどがウエハラ氏の作品だとNeko氏自身が説明したことで、二人の名前は同時に無意識だった。
作家と企画者は本来、展覧会のクレジットの中でしか並ばない。
それが帝国ホテルという場所を挟んで、撤去の対象者と決定者という非対称形状で並んでいた。
三人の発信
neko氏は後続の投稿で、ウエハラ氏を「戦士」と評する激しい発言をしている。
二人の「繋がり」は、秘められた交友ではなく、企画する者と描く者という、帝国ホテルという公共空間に置かれた配慮に引き裂かれる役割の関係だった。
neko氏について知りたい方はキュレーターnekoは何者?帝国ホテルの「お籠もり会」との関係を調査をお読みください。
帝国ホテルのガラス越しに問われた「見ない権利」
帝国ホテルの館内で起きたことを、抽象論にせず実務の話に落としたい。
参照すべきは、鑑賞者とキュレーターの双方の立場から書かれた論考だ。
児童への性的搾取に反対する立場は、論争の対立軸ではなく前提である,ここを争点化すると、議論は成立しない。
作品を見る権利があるなら、見ない権利もある。帝国ホテルの館内というガラス張りの区画で「見たくない人」にも見える場所に裸体表現を思い出したことを、表現の問題ではなく設計の問題として扱う。
理念2:ゾーニングという技術。展示するなら空間を分け、十分な説明を付けて公開する。
意見3:「キャラクターアート」全体へ一般化しない。表現の分類に自分の創作の認識を求める作家もいれば、いつのまにかその分類に囲まれていた作家もいる。。
反省4:「芸術」は批判を封じる根拠にならない。制作意図や思惑が十分に共有されないまま、作品の造形・作家の言葉・展示の場に即して議論する必要がある。。
意見5:議論の土台がない。報道上も、Xの投稿をまとめただけの「コタツ」記事が目立ち、議論の土台すら整っていないという指摘がある。
帝国ホテルで問われていたのは、表現の是非よりも先に、誰が、どこまで見える場所に基本的に決定したのだ。作家との対話、展示前の協議、空間の分離。
帝国ホテルという場所が残した課題
二人を「炎上の主役」として消費するのは簡単だ。だが帝国ホテルで起きたこのイベントの本質は、企画者と出品者という役割が、会場運営を請け負ったテナント構造の機能の中ではなかったことである。
帝国ホテルが主催ではなかったこと。
ギャラリーが説明を変えたこと。
作家への周知が届いてないこと。
責任の分界は解放なまま解除、解放を決めた本体も特定されていない。
帝国ホテルという場所が持つ格式の高さが、その解放さをいっそう目にした。

「二人は何者か」という問いへの答えは、こうなる。
現代アートの憂鬱で展覧会を組み立てる者と、キャラクター絵画を描く者。
その組み合わせ自体は、一見無理はない。珍しかったのは、帝国ホテルという置かれた場所のほうだった。

帝国ホテル館内のギャラリーで起きた「お籠もり会」の解禁。
誰が解除を決めたのかは安心なままで、今後テナントの展示をどう管理し、ホテルとしての格式と信頼を保っているのか。
帝国ホテルの行方が気がかりです。

