横山裕の生い立ちってどんな?弟二人は児童養護施設で育った!

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2025年の24時間テレビ.チャリティーマラソンランナーとして105キロを完走した横山裕さん。

現在はSUPER EIGHTで活躍する横山さん。

幼い頃に両親が離婚、その後母親が再婚し、異父弟が出来て、母親はそのご亡くなり、10代で一家の大黒柱になり、と壮絶な半生を送ってきたのです!

横山さんには弟が二人います。次男の勉さんは6歳年下、三男の充さんは9歳年下で、現在は税理士として働いているそうです。

横山さんが3歳のときに両親が離婚し、その後、母親は再婚。弟二人は再婚相手との子どもで、横山さんとは異父兄弟にあたります。

母親と二人きりで暮らしていた頃について、横山さんはこう語っています。
「うちは貧乏やったと思うんですけど、オカンがそれを感じさせなかった。

とにかく“子どもファースト”で、自分のことより子どもに何かしてあげな、っていう人でした。裕福ではなかったけど、幸せでした」と振り返ります。

その後、母親はがんを患い、さらに再び離婚。幼い弟二人は児童養護施設に預けられることになりました。そして2010年、母親は亡くなってしまいます。

横山裕さんは中学卒業後、定時制高校に進学し、建設建設会社に就、昼は現場で働き、夜は高校へ。

やがて、高校は中退はしてジャニーズJr.として活動を続けていました。そうして稼いだお金で、弟たちの学費をまかない、進学を支えました。

わずか10代で一家の大黒柱となった横山さん。当時は撮影現場にニッカボッカ姿で現れ、叱られたこともあったそうです。ちなみにその頃は金髪のヤンキー風な見た目だったとか。

2002年には関ジャニ∞(現・SUPER EIGHT)を結成し、大きなチャンスを掴みます。収入も増え、弟たちの大学進学費用を支払えるようになったそうです。

養護施設にいた弟たちは、テレビに出演している横山さんを見て、「きみ、兄ちゃんだ!」(横山さんの本名は侯隆〈きみたか〉)とつぶやき、先生に抱きついて喜んだこともあったといいます。

また、テレビで兄の姿を見られて嬉しい反面、「会いたい」という気持ちが募って、ホームシックになったこともあったそうです。

2010年5月16日に母親が急逝した直後、同年5月には次男の勤さんが記憶喪失に陥るという出来事もありました。

母親の死から1週間ほど経った頃、勤さんは体調を崩して倒れてしまい、混乱した様子で横山さんに電話をかけてきたそうです。
その際、「病院の先生が“オカンが死んだ”って言うてる」と話していたといいます。

勤さんは、母親の急死やその後の出来事をまったく覚えておらず、「母が生きていた頃までしか記憶がない」という状態に。これは、強い精神的ショックによって記憶の一部が失われる「解離性健忘(心因性記憶喪失)」と見られています。

その後、裕さんは弟二人を大阪に呼び寄せ、3人で一緒に暮らすようになります。旅行へ出かけたり、日常の中で楽しい時間を過ごしたりしながら、勤さんの記憶の回復を少しずつ促していきました。

そうした日々の積み重ねの中で、約2年後、勤さんがふと「母ちゃん、死んじゃったんやな」と涙ながらに話したことで、失われていた記憶が戻ってきたことが確認されました。

「このまま一生、記憶が戻らないのではないか」と心配し続けた2年間。裕さんにとっても、気の休まらない日々だったことでしょう。

その後、勤さんは順調に回復し、現在では結婚もして、穏やかな日々を過ごしているそうです。

幼い頃に両親が離婚し、母親の再婚で異父兄弟ができたものの、再び母親は離婚。その後、母親はがんで他界。
そんな数々の困難を乗り越え、10代半ばで一家の大黒柱となった横山裕さんは、まさに“ハードな半生”を歩んできました。

横山さん自身は、中学生の頃から家計を助けるためにアルバイトに励んでいたそうです。

高校は大阪府立西野田工業高校(定時制)に進学しましたが、芸能活動と建設会社での仕事を両立するのが難しくなり、1年ほどで中退。

しかしその後、「高卒相当の学歴を取りたい」という思いから、バラエティ番組『関ジャニ∞の仕分け∞』の企画で高等学校卒業程度認定試験(高認)を受験し、見事合格しています。

地道な努力を積み重ねてきた横山さん。44歳となった今、もしかすると今後、大学進学を目指すこともあるかもしれません。

その時はきっと、これまで仕事と弟たちの生活を支えてきた経験が、大きな力となるでしょう。