3月の行事と言えばひな祭り、そして欠かせないのがひなあられ、このひなあられにも東西で違いがあることを知っていますか?
西のひなあられはいわゆる小さな「おかき」そして東のひなあられは駄菓子でお馴染みの「ポン菓子」のような色とりどりのお菓子です。
桜餅の道明寺、長命寺、餅の丸餅、角餅、等々食べ物の地域差ってどうして出来たのでしょう?
ひなあられの始まりは平安時代・京都が発祥の地

関西のひなあられはしょう油や塩などで味付けしてあり餅からできているあられで、
乾燥させて切ったお餅を揚げた、いわゆる「おかき」です。塩やしょう油で味付けされているのでしょっぱい味です。

関東のひなあられはいわゆる「ポン菓子」に、さまざまな色をつけた砂糖みつをコーティングしたもので味は甘いのが特徴です。
ひなあられが出来たのには諸説ありますが、屋外でひな遊びを楽しむときに持って行くための携帯食だったという説が有力です。
女の子たちが雛人形を持って野辺、川辺や磯等屋外へ出掛けてお雛様に春の景色をみせてあげる風習があり、ご馳走とともに携帯食であるひなあられを持っていったといわれています。
ひな遊びは平安時代の宮中や貴族たちから始まったものです、京都の菓子職人が発案したという話もあり、ひなあられは京都が発祥だと言われています。
丸餅、角餅、桜餅の道明寺、長命寺等々食の東西の違いはなぜある?
おもちは丸餅から始まった、角餅は江戸時代から東日本にひろまる
ついたお餅を丸めるて形にするというところから、お餅は丸餅から始まりました。
江戸時代に庶民は餅を家でつけないため、それを商売にする餅つき専門の商人があらわれます。
人口が急増する江戸で餅を多く作るため、餅をのして「敵をのす(討ちのめす)」に通じるということから、武士の多い江戸で縁起が良いとされ、角餅が広まり、東日本に広まったそうです。
桜餅の始まりは関東風、関西風共に江戸時代
春の訪れを告げるように和菓子屋等の店頭を彩る桜餅、関東風の長命寺、関西風の道明寺、ともに始まりは江戸時代です。
関東風の桜餅は米粉や小麦粉を使ったクレープのように薄焼いた生地で餡をくるんだもの。
江戸幕府8代将軍・徳川吉宗は隅田川沿いにたくさんの桜を植樹し、江戸に花見の名所ができます。この桜の葉を活用しようと、東京都墨田区の向島にある長命寺の山本新六が桜餅を考案します。現在も向島には創業者が山本新六のお店があるのです。
関西風の桜餅は大阪の道明寺発祥の蒸したもち米を乾燥させたもの、もち米の皮で粒餡をくるみます、道明寺粉とは大阪にある道明寺で最初に作られたことからこう呼ばれます。
食パン 関東は6枚切り 関西は5枚切り
粉もん文化のある関西では食事としてパンを食べるので、食べ応えのある5枚切りが普通になり、関東ではパン=おやつ、という認識があるので手軽に食べられる6枚切りが定着します。
また戦後に進駐軍からサンドイッチ用のパンの製造を求めらたことから、8枚切りが定着していきます。
おにぎりは関東が三角 関西は俵型でおむすびと言う
三角に握ったおにぎりはしっかりと手早く握ることが出来るので、簡単で合理的に作れるという事から定着したと言われています。
また関西で俵型のおむすびになったのは、 歌舞伎の幕間に食べる「幕の内弁当」を食べる時に箸でつまみやすい小ぶりの俵型が町民文化の栄えた大阪で定着したと言われています。
東西の食の違いは職業と、水と土の質の差から生まれた
東西で食の違いが生まれた理由として有力な説が東西の職と土と水の質の違いから生まれた、という説です。
江戸時代まで農村の多い関東では、多くの人々は農業に従事していました。体力を使う農作業では大量の汗をかきます。そのため、ミネラルや塩分を補給できる濃い味付けが定着します。
関西ではその頃、日本の中心として栄え、公家や豪商が多く住んでいました。上流階級の人々は肉体労働をせず、健康に配慮した薄い味付けが好まれたようです。
また関東の土壌は大部分が作物が育ちにくい「関東ローム層」という栄養分の少ない火山灰に覆われています、そして、関東の水は大部分が硬水です。硬水では作物を作っても、色と味が劣り、料理は自然と醤油を大量に使い、長時間煮詰めて、味も色も濃い料理方法が広まりました。
対して、関西の土壌は柔らかい粘土質です。水は軟水で、良質の作物が育つので以上ので、醤油はあまり使わず、食材そのものの色や味を活かした、あっさりとした味付けの料理が好まれたと言われています。
東西の食べ物の形や味の違い、たくさんありますが、時代の背景・職業や水と土、食べやすさ等々で変わって来たという背景があるのですね。
まだまだ変わって行くのかも知れません。今から100年後はどうなるのか?と思いをはせながらの食事も楽しいものですね。